【歴史】 加藤清正が韓国から搬出したとされる「五色八重散椿」の「蔚山椿」起源説、根拠なし…ただの日本産だった

1: LingLing ★ 2024/04/18(木) 23:49:42.98 ID:X9f/gX0h
起源説論難「蔚山(ウルサン)椿」…ただの日本産ツバキの木だった
・蔚山歴史研究所、「蔚山椿」起源説考証結果発表
・1992年、日本京都の地蔵院から持ってきたツバキの苗木「蔚山椿」後孫、根拠なし
・壬辰倭乱時、加藤清正が蔚山から搬出したという話も根拠見つからず
・蔚山市、「蔚山椿」の名称使用、控えるあるいは慎重に
1992年、日本京都の地蔵院から蔚山に持ち帰った後、「蔚山椿」と呼ばれてきた日本の「五色八重散椿」が蔚山市庁広場の花壇で咲いている。「五色八重散椿」は、さまざまな色が幾重もの花びらになって咲き、一つずつ散る椿という日本式漢字名だ。蔚山歴史研究所の考証の結果、このツバキは「蔚山」と全く関連がないことが確認された。
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蔚山市庁広場に植えられた「蔚山椿」
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「蔚山椿」の植樹経緯が記された案内板
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「蔚山椿」と呼ばれてきた日本の「五色八重散椿」蔚山市庁広場の花壇
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「壬辰倭乱(※文禄・慶長の役)の時、日本に搬出された蔚山のツバキだという話の根拠が見つかりません」

蔚山市は、起源説に関する論難が続いている「蔚山椿」の正確な歴史的背景などを研究検討したこのような内容の蔚山歴史研究所の考証結果を16日、発表した。

現在、「蔚山椿」と呼ばれるツバキは、日本で「五色八重散椿」と呼ばれている。さまざまな色が幾重もの花びらになって咲き、一つずつ散る椿という意味の日本式漢字名だ。

1992年、蔚山のある放送局報道局長が日本京都にある小さなお寺・地蔵院から椿の若い苗木を蔚山に持ってきて植えた。当時、地蔵院山門の近くには京都市が製作した案内板があったが、このツバキについて「豊臣秀吉が寄進したと伝えられる」という説明があった。寄進という言葉は寺刹や神社などに金品を寄付、奉納するという意味だ。

以降、蔚山では、地蔵院案内板の説明に加え、壬辰倭乱の際に蔚山倭城を築いて駐屯していた加藤清正が豊臣秀吉に進上するために珍しいツバキを全て掘り出し搬出したという日本内の話が加わり、「蔚山椿」は実際に存在して、地蔵院から持ってきたツバキがその後孫という話で固まった。

以降、このツバキは「蔚山椿」と呼ばれ、蔚山中区の「区花」となった。 根拠はなかったが「蔚山に自生した珍しいツバキ品種で歴史性がある」という指定理由を付け添えた。また、蔚山の茶道集会では花が咲く春ごとに、蔚山市庁の庭園に植えられたこのツバキに茶禮まで行っている。

しかし、蔚山市はこの日の資料を出して、日本から持ってきたツバキと蔚山は関連性がないことを明らかにした。

蔚山市は、「蔚山歴史研究所(所長、ハン・サムガン)の研究結果、現在日本地蔵院で育てている、いわゆる「蔚山椿」と呼ぶ「五色八重山春」と関連し、明確な歴史的史料と学問的根拠が明らかになったものが見つからない」と説明 した。

特に、蔚山に持ってきたツバキである「五色八重散椿」を「蔚山椿」という名称で呼ぶことも控える必要があるという蔚山歴史研究所の意見も一緒に付け添えた。日本の「五色八重散椿」の蔚山起源説は確認されない話に過ぎないという意味だ。逆に、観光客を狙った日本の現地人たちが作り出した話という一角の主張がむしろもっと説得力を得ているわけだ。

市関係者は、「蔚山椿関連名称の使用に一層注意を払う」とし、「今回の研究結果を地域各機関および団体で共有した」と話した。

チェ・スサン記者

フィナンシャルニュース
https://n.news.naver.com/mnews/article/014/0005171929

【中央日報】韓日が400年の歴史が刻まれたツバキ「五色八重」に真偽問題浮上 [Ikhtiandr★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1709051560/

引用元: ・【歴史】 加藤清正が韓国から搬出したとされる「五色八重散椿」の「蔚山椿」起源説、根拠なし…ただの日本産だった[04/18] [LingLing★]

2: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/18(木) 23:56:32.33 ID:Ypj856RD
きれいな花だろ
日本原産なんだぜ…
4: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/18(木) 23:59:56.24 ID:c5cIggC3
それでも日本の観賞植物のほぼ全てが大韓固有の草木草花だからなこれだけは忘れては駄目

5: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/19(金) 00:00:10.06 ID:6DQ7Q7vu
嘘しかない国…
6: LingLing ★ 2024/04/19(金) 00:00:33.29 ID:6nZFqjVv
当時の記事1992.05.26.
希少椿五色八重 後裔3本古国の懐に

(東京=聯合ニュース)文永植特派員=壬辰倭乱当時、倭長・加藤清正が略奪していった希少ツバキの後裔3本が約4百年ぶりに故国の元に戻ってくることになった。

希少数「五色八重散椿」の還国祝賀式が26日の午後1時頃、韓国側から朴三中僧侶、崔鐘斗韓国芸総蔚山支部長、鄭南伊釜山女子短期大学長ら約30名が、日本側からオオコウチ(大河内存無)住持、カキヌマ(柿沼洗心)韓・日仏教福祉協会会長らがそれぞれ出席した中、京都にある地蔵院(椿寺)で、しめやかに行われた。

五色八重散椿とは、一本の木から5色に八重咲に花開いた後、散る時も、花びらがいっぺんにに散らずに一つ一つ散るとして付けられた名だ。

壬辰倭乱の時、加藤清正が自生地の蔚山鶴城で偶然発見し、美しい花の姿態に魅了され日本に持っていった。その後、彼はこの希少種を君主である豊臣秀吉に捧げて、豊臣秀吉は自身が茶道会のためにしばしば訪れた地蔵院に寄贈した。

1世は400年の風霜に耐えられずに83年末に枯死して根に近い部分だけ残り、代わりに樹齢百年前後の2-3世の10本あまりが、寺の裏庭で3月下旬から4月末まで開花し、絢爛な五色で壮観を成している。

したがって、この寺は地蔵院という名前よりも、椿の木の寺という意味の椿寺としてよく知られている。

崔支部長と朴は、たまたま希少種の事情を知った後、熱烈に還国運動を行った末に、柿沼韓日仏教福祉協会会長のあっせんで大河内住持の許諾を受けて、若い木ではあるが3本だけでも返される結実となった。

これらの木は、挿し木によって育てられた8年生くらいの大きさで20~30cmに過ぎない。しかし、葉が普通のツバキとは異なって、玲瓏に光を放ち神秘的な感じさえするというのが記念式に出席した人々の一様な話だ。

朴僧侶と崔支部長は、日本側との約束により、3本を本来の故郷である蔚山市と独立記念館、耳塚(慶南、泗川市)にそれぞれ分けて植えることにした。

蔚山市は、返された1本の木を市昇格30周年記念日である6月1日に市役所前の庭に植樹し、鶴城跡の場所に壬辰倭乱功臣を追慕する顕忠詞が建てられる日に移植する予定だと伝えられた。

https://n.news.naver.com/mnews/article/001/0003641775

7: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/19(金) 00:00:47.26 ID:TnEHYWIF
明治維新とは明治革命に他ならず、日本は伝統を野蛮なものとして焼いた
廃仏毀釈運動などはよく知られて事実であるし、五重塔は薪木寸前であった
初代文部大臣である森有礼は日本語を蛮族文字と憚りなくいい、
日本人は蛮族文字を捨て、フランス語を話すようにならなければならないなどと主張していた
明治革命により伝統文化を喪った日本
しかしアングロサクソンプロテストにとって見れば、オリジナリティーこそが重要であった
それを認知した明治政府は慌てて文化保護に乗り出そうとするが焼かれたものは元には戻らず、
日本は朝鮮の文化を強奪する事で、日本の文化と主張し始めるようになった
9: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/19(金) 00:01:55.15 ID:6BvcAQV2
つまり韓国固有の椿
10: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2024/04/19(金) 00:02:31.68 ID:OyRLIcRN
https://imgnews.pstatic.net/image/014/2024/04/16/0005171929_002_20240416140403347.jpg
「倭賊に奪われ倭地へ持ち去られた椿を、ウリミンジョクは見事に奪還したニダー!」とか、この花みながら盛り上がってきたのかねぇ
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