2023年04月26日
抜粋
もともとストリートピアノは2008年にイギリスの“Play me, I’m Yours”という活動から始まりました。見知らぬ人同士が知り合うきっかけとして音楽とピアノを活用したのです。こうしたパブリックスペースのゆるやかな雰囲気が共感を呼び、日本でも街中にピアノを設置する動きが見られるようになりました。
しかし、YouTubeなどの動画でピアノの腕自慢が出現しだしたことで状況は一変。時間をかけて撮影機材の設置をしては一人でピアノを独占し続ける状況が当たり前になり、各地で問題になっているとの目撃談もあります。バズり目的の利用者が増えたことでパブリックスペースとしての価値を失い、近年では無料のアトラクション程度の意味合いしかなくなってしまいました。今回の加古川は象徴的なケースなのだと思います。
以前から筆者は日本のストリートピアノ文化に違和感を感じていました。NHK-BSの『駅ピアノ』、『空港ピアノ』、『街角ピアノ』をコンプリートするマニアとして言うならば、海外と日本とでは明らかに空気感が違う。もっと言えば日本のシリーズはつまらないのです。
まず、日本のストリートピアノには“他者”が存在しません。確かに見物人はいるのだけど、そこで演奏者との間に何らかのコミュニケーションはほぼ発生しない。譜面や機材を持ち込んで練習の成果を披露する人と、その“作業”をただ見守る人がいるのみです。
一方、海外のストリートピアノには意外性があります。ロンドンのパンクラス駅の回では、ベートーヴェンの「歓喜の歌」をダウン症の女の子とカジュアルなアレンジで連弾する男性が印象に残りました。女の子は好きなように鍵盤を叩くだけなのですが、男性はそれを受け入れて“いいよ、いいよ。その調子”と応援して弾き続ける。中略 ストリートピアノの原点である公共空間の精神が最もよく現れているシーンでした。
中略
もっとも、杓子定規になってしまう理由は管理者にだけあるのではありません。やはり演奏をする側も、その場にあった曲や演奏スタイルを選ぶ必要があります。自撮り動画を見ても、打鍵と単音のメロディの音量ばかりが大きく、なんとなく手数が多く聞こえるようなスタイルが大半で、それは音楽というよりも曲芸に近い代物です。
雰囲気も何もあったものではない。当然見ず知らずの人同士の味わい深い会話など生まれるはずもありません。“目立たない端っこの方でやってください”となってしまうのも仕方ないところでしょう。
明らかな規範意識の欠如が見られた加古川のケースはともかく、日本のストリートピアノが根付かない理由は、音楽受容がまだまだ未熟であることにあるのではないかと思うのです。
全文はソースをご覧ください
海外のストリートピアノ
https://youtu.be/rVyCGOxOhgc
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https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1682469049/
引用元: ・マナー違反続出で「駅のピアノ」が撤去 海外とは明らかに違う日本のストリートピアノのつまらなさ「音楽というよりも曲芸」 [muffin★]
解決できると思い込んでる輩が
多いな
頑なな思い込み
痴呆の始まり
笑いだけは取ったぞ、俺は?
話題になってるから何となく置いてみた結果迷惑な存在になってしまっただけやん