5世紀の東アジアの歴史を揺るがした高句麗の征服君主、広開土大王(374~412)。彼の実体を近代の時代に再び知らしめたのは、日本の学者たちだった。
高さ6メートルを超える大王の碑石を彼らは初めて隅々まで調べて観察し、写真を撮り文字を判読した。
だが、公式の調査記録はまったく残すことなく去ってしまった。なぜ、そのようなことをしたのだろうか。
ー中略ー
ー中略ー
公開したのは、20世紀初頭に日帝が初めて基礎を築いた朝鮮半島の遺跡調査の実状を追跡してきた嶺南大学文化人類学科のチョン・インソン教授だ。
ー中略ー
公開された資料は、日本人学者たちが広開土王碑を初めて学術調査した記録の原本が出てきたという点で、重要な学術史的な意味と価値を持つ。
何より注目される資料は、広開土王碑の碑石の表面に石灰を塗り文字を任意に刻み込んだという当時の中国人拓本業者と、調査員の谷井が面談した記録だ。
これは、現地に住んでいた拓本業者の初鵬度に会って憲兵補助員の通訳で対話したものであり、風化によって碑石の表面が摩耗すると、1900年代から石灰を塗り続け、
既存の拓本から考えた文章の文字を任意に刻み込んだという内容だ。
広開土王碑の碑石を19世紀末の段階で日本軍などが介入し石灰を塗って内容を改ざんしたという疑惑を、
1970年代に歴史学者の李進煕(イ・ジンヒ)が提起したことはあるが、この面談資料はこれまでまったく知られていなかった。
1980年代初め、中国の学者の王健群が、拓本を行った業者の子孫に会い、碑石を保存し金を儲けるために石灰を塗り文字を改めて書き込んだことを先祖から聞いたという伝聞を入手し、
論文で紹介したことはあるが、110年前に拓本を取った当事者にインタビューした面談記録の実物は初めて出てきたものであるため、学界に波紋を広げるものとみられる。
もちろん、この面談メモは、日本軍が直接碑石を改ざんしたという決定的な物証ではない。
谷井と踏査を共に行った関野や今西が、数年後に自身の個人的な論文で、一部は伝聞形式で拓本業者の陳述を引用した記録もあるが、
1900年代初期から石灰を塗り続け碑石の表面を補強し、誰が提供した文字テキストを基準にしたのかは不明だが、
新たに字を書きこみ続けたという当事者の直接証言が記録された資料が確保されたという点で、李進煕の碑文改ざん説の再検討の必要性を喚起させる意味があるとチョン教授は分析した。
さらに、一つ特異な点は、現在の広開土王碑の碑文について韓日学界の間で激しい論議が起きている辛卯年条に該当する内容がまったくないという点だ。
辛卯年条は、広開土王の在位期である391年の辛卯年に、倭の勢力が海を渡り新羅と百済を破り臣民としたという一節、
いわゆる「来渡海破」の一節だが、当時、古代日本の大陸進出の歴史を見つけるために血眼になっていた総督府と日帝の植民史学界の立場で考えると、
この一節を写真にまったく撮らないのは、きわめて異例なことだ。
チョン教授は「当時の石灰が塗られた碑石の状態が、自分たちが解釈した来渡海破の一節を示すことができないコンディションだったので、
大きく取りあげなかった可能性が高い」とする分析を出した。
ー後略ー
ノ・ヒョンソク記者、図版資料:チョン・インソン教授提供
全文はソースから
登録:2023-05-10 06:37 修正:2023-05-10 10:44
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/46690.html
引用元: ・【ハンギョレ】 広開土王碑に石灰を塗った…日本の調査記録を公開 [5/10] [仮面ウニダー★]
そうやって、今現在の自分たちの都合だけで嘘ばかりつくから後で後悔することになるんだぞ
今の状況に過剰適応しすぎなんだよ
時間がたてば環境も価値観も変わるんだから
そんなんだから大清属国なんて国旗をありがたがって後で後悔するんだよ
倭軍ごときが海を渡るわけがないから改竄されたっていってるわけだが
じゃあ、好太王碑文を抜かして、朝鮮側史書「三国史記」の記述を抜き出してみると・・あんま変わんないんだよこれがw
七支刀が百済から倭へ贈られた背景(372年頃と推定されている)も、369年から高句麗の侵攻があるのを無視しがちだよね
346 新羅、倭国と断絶、倭軍侵入(三国史記新羅本紀)
369 高句麗の百済侵攻開始(三国史記百済本紀)
391~392 高句麗、広開土王即位 (高句麗好太王碑文)(三国史記高句麗本紀)
393 倭軍侵入。金城を5日間囲む。敵は舟を棄て、内陸深く入り込んでいるので、その矛先は防げないとして持久戦にて倭軍を破る(三国史記新羅本紀)
397 百済、太子を人質にし倭国と修好(三国史記百済本紀)
399 百済が倭と内通、高句麗王は倭軍侵入に直面した新羅の救援を決定(高句麗好太王碑文)
400 高句麗は5万の兵で新羅救援。新羅・任那・加羅に侵攻し、倭を退却させ、安羅を討つ(高句麗好太王碑文)
401 後燕の高句麗侵攻(※諸中国史書より)
405 倭軍侵入。新羅の明活城を攻める。帰りを待ち伏せするが、破れる(三国史記新羅本紀)
408 倭が対馬に軍営を置き、兵器・資材・食料を貯え、新羅を襲撃準備(三国史記新羅本紀)
444 倭軍侵入。新羅の金城を包囲、食料が尽きたので引き上げる。新羅王は数千余騎を率いて追撃するが、逆に大敗し、将兵の大半が
戦死する(三国史記新羅本紀)
歴史的価値無いって分かったから発表も何もしなかったんじゃ?
価値がないというか、事実ではないと結論付けたんだろw
>風化によって碑石の表面が摩耗すると、1900年代から石灰を塗り続け、
>既存の拓本から考えた文章の文字を任意に刻み込んだという内容だ。
決着がついたのにな、また書き換えとかw
ウリナラ史観も大変だな
拓本ガーしかもう自分達の都合のいい歴史にするのは無理だからな
主語や目的語省略しまくって超解釈することにしたんだろ
また捏造ってことにするのか?
当時新聞やニュースも大々的に取り上げてたよね
さらに、2005年(平成17年)6月23日に酒匂景信本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂景信本と同一であると確認された。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂景信本とが完全に一致していることが発表され[22]、これにより李進熙の改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』として出版された