<封印された証言ビデオ 源流をたどる>(上)
東京都が1990年代、都民330人の東京大空襲などの戦争体験を収録しながら、その証言ビデオの大部分を非公開としてきた。うち116人分は新たに公開・活用される見通しだが、残る多くは証言者の意向を確認できず、お蔵入りの懸念もある。なぜそんな事態に―。取材で浮かんだのは「戦争の実態を後世に伝える」という本質を置き去りにしたイデオロギー対立や、事なかれ主義に徹した当局の姿だった。戦後78年の夏が終わる今、改めて背景を考える。(井上靖史)
◆「自虐的歴史観を押しつけている」
「おれは反対だ」。都庁で平和事業施策に携わった元職員は99年春、初当選から間もない石原慎太郎元知事からそう言われたのを覚えていた。当時、墨田区内に建設構想があった「(仮称)都平和祈念館」を巡る判断を仰いだ際のこと。構想は凍結され、祈念館での公開を前提にしていたビデオも、この判断で長く死蔵されることになった。封印された瞬間だった。
石原氏が祈念館に反対したのは、自身がよって立つ保守派の強い意向が背景にあった。もともと祈念館は、大空襲を体験した作家の故早乙女勝元さんら市民グループが提唱。ところが97年に展示基本設計原案が出されると「日本のアジアへの加害ばかりが強調され、自虐的歴史観を押しつけている」と反発が上がった。迷走の始まりだった。
都議会は98年、関連予算案に「建設は、展示内容について都議会の合意を得たうえで実施する」との付帯決議を付けて可決した。自民だけでなく民主党(当時)の「右派」も建設反対を激しく主張。イデオロギーがぶつかり合う中、職員の負担も大きく、意欲はそがれていった。
◆街宣車、金属探知機、脅迫電話
元職員は取材に「展示を検討する委員会の開催日に街宣車が来た。委員会の入室に金属探知機も使った。自宅へ『駅のホームで気を付けろ』と脅迫電話もあった」と振り返った。賛成、反対の両派から受けるプレッシャー。「上司は私に『まとめてこい』と言うばかりで明確な方針は固まっていなかった。(バブル崩壊で)多くのハコモノが中止になった時期でもあり、みんなが賛成できるようなものを本気でつくる気が都幹部にあったかどうか、分からない」とも嘆いた。
結局、石原氏の最終判断の時期以前に、既に都の姿勢は後ろ向きに。石原都政が代わっても「触らぬ神にたたりなし」といった扱いが続いた。ある都議は「祈念館の問題は職員にとってトラウマ(心的外傷)。触れたがらない」と話す。
◆舛添要一氏「報告に上がってきた記憶がない」
祈念館建設は無理としても、せめて証言ビデオなど資料を生かそうという発想はなかったのか。石原氏の2代後の都知事で、国際政治学者の舛添要一氏は話す。「私に上がってくる政策案件の多くは五輪関係だった。平和祈念館や、集めた資料を活用できていないことが、課題として報告に上がってきた記憶がない」
つらい体験を話し、公開を待ち続けた証言者。放置されたまま、鬼籍に入った人も少なくない。
祈念館と封印ビデオ 祈念館は東京都墨田区の横網町公園内に2001年度の完成を目指し計画された。防空ずきんや焼け焦げた万年筆など都民から寄贈を受けた5000点近い資料や、1億円を投じて収録した都民330人の戦争体験の証言ビデオを展示する予定だった。整備が凍結され、多くが倉庫にしまわれたままとなった。ビデオは9人分のみ同意を取って公開し、他は非公開。昨年末から都は方針を改め、祈念館以外でもビデオの公開や活用をして良いか証言者に確認を取り直し、3月末時点で116人の同意を得ている。
東京新聞 2023年9月6日 06時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/275007
引用元: ・石原慎太郎知事が「おれは反対だ」…保守派の反発で凍結された平和祈念館構想 [蚤の市★]
石原慎太郎の時の尖閣のための募金とはなんだったんだろうかw
この新聞社の逆に行けば良いのか
図書館か何かで閲覧できれば十分
神に願うにしては意味合いが違わないか
南京玉簾千人切とか展示しちゃうんだろ?
問題はそこではなく
日本の国土を荒廃させ、多くの国民を無駄時にさせた、戦争を扇動した者達を、日本人自らで裁けない、裁かなかったととにある
戦禍の悲惨さなら無駄な税金使わなくても十分学べる
どうせ天下り先の受け皿作るだけだろ