【歴史】吉野ケ里で聞く邪馬台国九州説…「中国要素ある環濠集落、ここだけ」

1: 樽悶 ★ 2023/11/29(水) 23:22:28.00 ID:NPH38wuE9
石蓋に刻まれた謎の「記号」はなにを意味するのか
https://www.asahicom.jp/imgopt/img/db3529c1fe/comm/AS20231126002001.jpg
謎の記号が刻まれた石棺の蓋を興味深そうに眺める歴史ファン=佐賀県の吉野ケ里遺跡
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線刻が刻まれた3枚の石蓋の接合状況。2枚にわたった線刻がある。石蓋1は、線刻を刻んだ面が棺内側に向いていた=佐賀県提供
https://www.asahicom.jp/imgopt/img/af93c57c5f/comm/AS20231126002007.jpg

 「邪馬台国時代の『クニ』 最大級の環濠(かんごう)集落発掘」の見出しが、1面トップに躍った。1989年2月23日付の朝日新聞西部本社版の朝刊だ。弥生時代後期では国内最大規模の2、3世紀に築かれた環濠集落が、現在の佐賀県神埼市と吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里遺跡で見つかった。

 外濠内の面積は約25ヘクタール。甲子園球場約6個分になる。集落の周囲に長大な濠がめぐり、集落の一部は、南北約160メートル東西約70メートルの内濠にも囲まれていた。邪馬台国の時代にあたる遺跡としては、初めて物見やぐら(楼観)が確認され、木柵を立て城柵として使われた土塁も見つかった。

 吉野ケ里フィーバーの幕開けだった。2カ月半で約100万人の考古学ファンが押し寄せた。

 中国の史書「魏志倭人伝」には、「倭王卑弥呼」の宮殿の構造について「宮室楼観城柵厳設(宮室、楼観、城柵を厳かに設け)」と記されている。吉野ケ里から、そのうち「城柵」と物見やぐら「楼観」が見つかったのだ。

■「奴国」は福岡市、「伊都国」は糸島市 クニ名不明の吉野ケ里に「まだ可能性」

 記事は「古代史最大のナゾである邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説、九州説などの論争が続いているが、今回の発見は古代史解明への大きな手がかりになりそうだ」と記す。(以下ソース)

2023年11月27日 18時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCV5T7BRCQTTHB00F.html

引用元: ・【歴史】吉野ケ里で聞く邪馬台国九州説…「中国要素ある環濠集落、ここだけ」 [樽悶★]

2: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:23:13.50 ID:abdmm48f0
中国の植民地おめ
3: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:24:28.67 ID:b12Ns2On0
テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」
4: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:24:38.31 ID:w+lQHpTo0
九州のほうが理に適ってる
5: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:24:46.83 ID:b12Ns2On0
テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長

私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。

6: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:24:54.90 ID:B/4Scpqi0
近畿とかなにもみつかってないし
7: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:25:05.59 ID:b12Ns2On0
テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」

8: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:25:23.12 ID:b12Ns2On0
テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
9: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:25:39.52 ID:b12Ns2On0
テンプレ⑤
関川氏、建物Dについて
○最も規模が大きく中心的とされる建物Dについても、主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばないところがある
○主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に前期の大きな区画溝による掘削のためである
○遺構の中心になるような重要な建物であれば、その後があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
○はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
○推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある
10: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:25:44.73 ID:q37Z54oi0
 
卑弥呼スムニダ
 
 
11: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:26:02.57 ID:b12Ns2On0
テンプレ⑥
石野博信氏の土器年代測定に関するコメント
https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku294.htm
奈良県の場合は、年代の決め手がほとんどないので、次のようにして年代を決めている。
まず、須恵器の年代を決める。須恵器は400年前後ごろから始まるので、判定対象の土器がそこから何形式ぐらい古いものかを調べる。そして、土器の一形式をおよそ30年と見て年代を導き出す。
しかし、この方法にはいくつかの問題がある。
土器の一形式の継続期間が、人によってちがう。ある人は30年と言うし、別の研究者は20年と言ったりする。
土器型式の細かい区分をどうするかということも、人によって異なる。たとえば、布留0式というのを認める研究者と認めない研究者がいる。
布留0式を認めなければ、1形式分の年代が狂ってくる。

中略

近畿地方では、この程度のレベルで年代の話が進んで、新聞などで3世紀の卑弥呼の時代の墓から遺物が出たと言うような発表になる。
正確に言えば、畿内の年代については根拠らしい根拠は何もない状態なのである。

12: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:26:22.96 ID:b12Ns2On0
テンプレ⑦
畿内説重鎮の寺澤氏も箸墓=卑弥呼の墓説から後退
寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』より

 第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。  
 第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。  この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」

13: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:26:25.37 ID:mds29jls0
倭人伝で実在したのはイト国まで。
そこから先は邪馬台国も含めてただの作り話。
14: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:26:46.65 ID:b12Ns2On0
テンプレ⑧
県立橿原考古学研究所 青柳正規所長
「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
https://www.sankei.com/article/20231106-YQ2CEHEOWRLK3EV2AME3WDEYFU/
15: ウィズコロナの名無しさん 2023/11/29(水) 23:27:09.09 ID:B/4Scpqi0
だいたい日本は元々海の底だから大和民族とかないしな
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