日本中のプロレスファンが固唾を飲み、見たワールド決勝の活躍で一気にネームバリューが上がり、翌年の第12回ワールド大リーグ戦にも連続参加。リーグ戦ではエースのジャイアント馬場とはリングアウト引き分け、因縁のアントニオ猪木とは反則勝ちという活躍で大いにリーグ戦を引っ掻き回した。名実ともに日本マットにおいてメインエベンターとなる。
ところがその後、参加するシリーズ毎にトーンダウンしてゆくのである。翌年、サマー・シリーズにエースとして参加しジャイアント馬場のインターナショナル王座に挑戦するが右膝の怪我もあり2対0のストレート負けを喫した。
最後の日本プロレス参戦(既にジャイアント馬場もアントニオ猪木も既に独立)となった1972年の『サマー・ビッグ・シリーズ』にもエースとして参戦したが、特別参加した“アラビアの怪人”ザ・シークの悪党ぶりにマルコフのラフ殺法が色褪せて見えてしまう。このシリーズにおいて、後々ブル・ラモスやエル・ゴリアスと人種差別的な乱闘があったと伝え聞く。
徐々にそのファイトに翳りが見え始めていたが、1974年ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに参戦。ジャイアント馬場が初めてジャック・ブリスコに勝利、日本人初のNWA世界王者となり盛り上がっている中、最終戦でひっそりと馬場のPWFに挑戦したがわずか13分ほどで2本ともとられ完敗している。満を喫してターゲットを新日本プロレスのアントニオ猪木に向け、1978年初参戦した『闘魂シリーズ』の名古屋でNWF王座に挑戦したが、これまた11分41秒、卍固めで完敗を喫した。
日本に初登場してから新日本プロレス参戦に至るまで、エース外人として参戦はするものの、肝心の日本エースとの対戦においては寝る役となる定番の”シリーズ参加外国人”止まりが多く、徐々にそのカリスマ性は薄れていった。
その後、フロ◯ダやMidwest中西部の各テリトリー、さらにAWA圏での活躍を雑誌など通じて目にしていたが、次第にその雄姿は消えていった。ところが、2004年4月17日に開催されたCACに、アントニオ猪木が新たに新設されたルー・テーズ賞を受賞することを聞き、参加し会場に足を踏み入れるとあのクリス・マルコフが奥様と会場に現れたのである。現役当時と変わらぬガッチリした体格に日に焼けた顔で、まだまだ老け込んでいる様子もなくアントニオ猪木との再会を楽しみにしておられた。
やはり日本での思い出はアントニオ猪木と『第11回ワールドリーグ戦』の決勝で争った試合のことを懐かしく語られ、現在はミネアポリスで集合住宅の管理業務をおこなっているとのことであった。アントニオ猪木の出世試合の相手をしたクリス・マルコフの名は、あの試合をリアルに体感した昭和プロレスファンにとって忘れられない名レスラーである。改めてお悔やみ申し上げます。
週刊ファイト
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引用元: ・【訃報】アントニオ猪木と戦った“ロシアの妖怪”クリス・マルコフの訃報が届く 85歳没/プロレス [征夷大将軍★]
CHRIS MARKOFF DEAD AT 85
Posted by Arin De Castro | Feb 10, 2024

