■「移民」と「外国人」への嫌悪感
最近SNSからいわゆる“炎上”が起こり、大きな影響を及ぼすことが多い。問題はそうしたSNSの批判が、時に根も葉もない言いがかり
であることである。
しかし、それによって世間の批判は一気に高まり、時には大きなスキャンダルとなり対象となった人が社会から葬り去られる。
企業の場合は、経営破綻にまでつながる可能性がある。
今では誰もが、言論の自由という衣を着て偽情報を流すことで世間を欺き、世論操作できる。こうしたスキャンダルの伝達は、
かつては新聞や放送局などの大きなメデイアの専売特許であったが、今では誰でも世論を操作することができる時代になった。
今回の場合、流された偽情報もさることながら、それに過激に反応した人々の方が気になった。
それは「移民」と「外国人」という言葉が、この製菓会社が嫌悪された理由であったことだ。不買運動まで呼びかけられたという。
経営者が外国人であることは、世界中どこでもおかしなことではない。
また移民を受け入れることは日本政府も検討していることである。世界的に人口減に苦しむ国では当たり前のことである。
移民と外国人に対して過剰反応と思えるほどの嫌悪を示すことが、最近とみに増えてきているような気がする。
日本経済の停滞と日本企業の競争力の低下が、極度の劣等感を生み出し、そのはけ口として外国人と移民が批判の対象になっているのだ。
しかもその外国人と移民が指すところは西欧人ではなく、近隣のアジア人のような非西欧人であることが、もっと気になることだ。
そこには、人種差別的な響きが感じられるからだ。
ー中略ー
今でも、海外にいる日本人はややもすると、中国人と見間違えられることを恐れている。
それは長年東京に住んだ田舎者が、東京で田舎者だと見間違われたときに感ずる、面はゆい感情のようなものだ。
私自身も海外に住んでいたとき、そうした感情にとらわれた。ヨーロッパに同化したいという気持ちが中国人だと思われたくない
一種の見栄を生み出し、中国人と見られることを妙に恥じ入る気持ちを生み出したのである。
確かに漱石の言うように、日本はとても長い間中国の世話になっている。今少しばかり中国が落ち目だからといって、
小馬鹿にする気持ちは言語道断というしかない。
もちろん、中国が世界の指導者に再びなろうとしている現在、昔のよしみで中国人と間違われるのを潔しとするのも、
いささか気恥ずかしい。もっと近隣に対し、素直になるだけでいいのだ。
西欧化へ舵取りして以来、どうもそうした素直さが欠けたことが、明治以降の日本の孤独なのかもしれない。
外国人や移民に対し同国人と同様に素直に悪いところは注意し、いいところは評価するだけでいい。
一方的に脅威を感じたり、見下したりする必要などさらさらない。それはアジア人に対してのみならず、西欧人に対しても同じである。
■普通に「アジア人」として生きる
漱石も留学時代、西欧人並の日本人として大分「突っ張っていた」ようだが、留学後この突っ張りがとれたところで、
作家として成長したように思える。
今の日本で大切なことは、西欧人に負けないという下手な自負など捨て、たんなるアジア人として生きればいいだけである。
そうすれば、外国人に対する不必要な怒りなど消し飛ぶだろう。それが21世紀の日本にとってとても重要なことなのだ。
的場 昭弘 :神奈川大学 名誉教授
全文はソースから
1/11(土) 6:02配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d5c21cfadd22158fb038326c83bf3a2ec229cf0
引用元: ・【東洋経済】 「外国人」「移民」と口にすれば嫌悪感を抱く日本人、「アジア人」として自覚はないのか [1/12] [仮面ウニダー★]
アジア人と西欧人と分けるのはよいってこと?
アジア人云々はなんも関係ないだろ
>>1は何が言いたいんだろな
筆者は
シリアやイスラエルも含めたアジア人の自覚はありますか?
そも「アジア」って欧州から見て、ウラル山脈の向こう側、程度の漠然としたくくりだしね。
筆者はその辺を理解してないんだと思う。
アジアつってもトルコとか北アフリカくらいまで
丸められたら共同意識とか持てねぇよ。
「外国人」「移民」と口にすれば嫌悪感を抱く
「アジア人」としての自覚は無いのか
何がどうつながるのか全く分からない。
そもそもアジア人としての自覚とは何を意味するのか。
イタリアだって統一してから100年以上たつのに
各都市民意識の方が強いって話だし
地域名だけ取り出してアジア人とか言い出しても
意義も無い枠組みに何の意味があるのか
それこそ隣の半島でも州ごとでいがみ合ってるじゃん