◼生きる力与える緩和ケアのドキュメンタリー
前橋市で「緩和ケア」の診療所を開いている萬田緑平医師の診療方針に感銘したオオタヴィン監督が、みずから先生の日常を追ってカメラを回し編集までこなした。
冒頭は普段着の萬田先生が患者宅に出向き、「手品」をする場面から始まる。ここがまず象徴的な場面だ。小さなボールが先生の手の中で現れては消える。「欲張りの人はボールの数が増えるんだよ」。萬田先生の声かけに、病院から家に帰って余命が延びた(!)おじいさんが楽しそうにする。会話が弾む。手を触れ合う。
先生のしていることは医療行為ではない。ただの雑談、コミュニケーションだ。でも、この言葉と体のふれあいが患者に生きる力を与えているのは間違いない。
医療とは何なのだろう。観客は冒頭から考えさせられる。病院での医療とは。そして最期を家で過ごすと決めた人を支える緩和ケアとは――。
◼患者が望むことを全力でサポート
1964年生まれの萬田医師は群馬大医学部を卒業後、外科医として働き始めたものの、抗がん剤治療や胃ろう造設などを行う中で、医療のあり方に疑問を持つ。そして43歳で転身。身体的、心理的な苦痛を和らげることで患者や家族の生活の質(QOL)の向上を目指す緩和ケア医になった。
「僕の診療のポリシーは『患者本人が好きなように』『本人が望むことを全力でサポートすること』です」
そのために、医療用麻◯も積極的に使う。痛みさえなければ、患者は「好きなこと」に気持ちが向く。
本作に登場する5人の患者の家族のうちのひとつ。妻とペットの豆柴(まめしば)に囲まれて自宅で過ごす男性は、昼間から焼酎をグッとやり、ひとこと「ああ、うめー」と息を吐く。生きる時間が残り少ない人の生の声、本当の笑顔である。
◼医師との信頼関係が生む笑い
緩和ケア・ホスピスという考え方が日本に入ってきたのは1973年。柏木哲夫医師(大阪大名誉教授)が留学していた米国から、「死にゆく患者に対する組織的ケア」というプログラムを淀川キリスト教病院に持ち込んだ。
その柏木先生が講演でよく話すのが、終末期医療の現場におけるユーモア、笑いの効用だ。末期がんの女性に「いかがですか?」と声を掛けたら、返ってきた答えが「はい、順調に弱っています」だった――などと。心にゆとりがないと笑えない。そして、生きていきたいという希望がなければ周囲を笑わせる気にはならない。
作品では、往診する萬田医師がおやじギャグを連発する場面が繰り返される。言われた患者や家族はそれを受け流したり、反論したり。それが何とも言えないユーモアとなって「病気の人のいる部屋」を「あたたかい場所」に変えていく。
これは緩和ケアというよりも、萬田医師が実践する「萬田流」スタイルなのかもしれない。医師と患者に上下関係はない。あるのは信頼関係だ。自分らしく最期を生きたいと思う人と、それを支える医療者と。互いに認め合い尊敬しあっているから、自然とそこに笑いが発生する。
◼死んだら終わり 医療の転換
ではなぜ、緩和ケアは広がらないのだろう。各種調査では、大多数の人が「最期は自宅で」と願っているのに。
戦後すぐのころは8割以上の人が自宅で亡くなっていた。それが国民皆保険制度の整備と一種の「病院信仰」の広がりから、徐々に病院死が増えていく。1976年に病院死は自宅死を逆転し2000年代に一時8割程度に。それがコロナ禍をへて漸減していくが、いまでも7割弱が病院で亡くなる。
私はこれまでの医師養成の思想に原因があると考える。これまで医師が目指してきたのは「いのちを救うこと」だ。もちろんそれは正しいのだけど、医療技術の目覚ましい進展と超高齢社会があいまって、「治療はできないけど生きる人」が一定数出てきた。医療は無力。
その時、その人たちをどう支えるのか。新たな思想はまだ定着していない。加えて医者の卵たちは「死」を学ばない、死は敗北だと教え込まれるから。死んだら終わり。この流れどう打ち破るか。
続きは↓
https://mainichi.jp/articles/20250505/k00/00m/200/003000c
[毎日新聞]
2025/5/6 08:00
引用元: ・“幸せな死”を迎えるために必要なこと「ハッピー☆エンド」 [煮卵★]
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