【音楽】「3人目のB’z」明石昌夫さん死去…最後に語った大人気バンドの本質「松本孝弘さんがすべてです」

1: muffin ★ 2025/05/25(日) 10:35:42.72 ID:UNvvvRxe9
https://news.yahoo.co.jp/articles/1be4dbff17431a8d66f09a60ae8a3d708452145d
2025.05.25 06:44
 B’z、TUBE、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLAN……。1990年代、「ビーイング・サウンド」が日本の音楽チャートを席巻した。

音楽プロデューサーの長戸大幸氏率いる音楽事務所「ビーイング」(現・B ZONE)は数多くのアーティストを発掘し、ビッグヒットを連発した。そのサウンドの礎を作ったのが、音楽プロデューサーの明石昌夫さん。「3人目のB’z」と呼ばれる存在だった。

その明石さんが、5月19日、亡くなった。68歳だった。死因は非公表。本誌は、2025年1月7日、明石さんに90分の独占インタビューをおこなっていた。生前最後となった肉声を、未公開エピソードを中心に紹介する。

――明石さんがB’zのアレンジャーとして関わるようになったきっかけから教えてください

30歳で上京して、僕を拾ってくれたのがビーイングでした。当時、事務所内でB’zの企画が立ち上がっていて、僕はアレンジャーとして参加することになりました。長戸さんがアレンジャーを探していたんです。

――それまで、アレンジャーとしてのキャリアは?

まったくありません(笑)。僕が作ったデモテープを長戸さんが聴いて、「アレンジしてみないか?」と。僕は、作詞家でも作曲家でもシンガーでも音楽に携われればよかったので、やることになったんです。ただ、最初の1、2年は本当に大変でした。僕の人生でいちばん大変な時期でした。とにかく、やってもやってもボツなんですよ。僕がアレンジして、スタジオミュージシャンを集めて、スタジオでレコーディングして、最初の20曲ぐらいボツだったんです。これ、レコード会社の発注だったらありえない。数百万単位のお金をかけているわけですからね。

――B’zとの最初の出会いは?

1987年、1stアルバムが出る1年ほど前になります。2人とは会社で顔を合わせたことがある、という程度でしたね。松本(孝弘)さんはスタジオミュージシャンだったので、何度かギタリストとして参加してもらっていました。すでに売れっ子で、TM NETWORKや浜田麻里さんのサポートをやってました。ギタリストの北島健二さんの次を担う、若いハードロック系のスタジオミュージシャンという位置づけでしたね。稲葉(浩志)さんは、ビーイングのボーカルスクールに通っていて、優等生でした。

https://smart-flash.jp/entame/346765/

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引用元: ・【音楽】「3人目のB’z」明石昌夫さん死去…最後に語った大人気バンドの本質「松本孝弘さんがすべてです」 [muffin★]

2: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:35:57.30 ID:hsQbiw+w0
B’zよりYouTubeで大宮公園のピース君見てた方が楽しいからな
3: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:36:27.54 ID:43mzPn+90
どうでもいいですよ
4: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:36:37.35 ID:cjFpVz7e0
誰だよ
6: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:37:36.71 ID:HKWkCHTB0
B’zは昭和の遺物
7: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:37:56.18 ID:Qy+bE7qt0
>稲葉(浩志)さんは、ビーイングのボーカルスクールに通っていて、優等生でした。バカにしてて草

8: 名無しさん@恐縮です 2025/05/25(日) 10:38:28.76 ID:P937SQU30
おお、明石さんが…
邦楽で縁の下の力持ちの一端を担ったお方だ
お疲れ様でした
ありがとうございました
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