2025.05.25 06:44 B’z、TUBE、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLAN……。1990年代、「ビーイング・サウンド」が日本の音楽チャートを席巻した。
音楽プロデューサーの長戸大幸氏率いる音楽事務所「ビーイング」(現・B ZONE)は数多くのアーティストを発掘し、ビッグヒットを連発した。そのサウンドの礎を作ったのが、音楽プロデューサーの明石昌夫さん。「3人目のB’z」と呼ばれる存在だった。
その明石さんが、5月19日、亡くなった。68歳だった。死因は非公表。本誌は、2025年1月7日、明石さんに90分の独占インタビューをおこなっていた。生前最後となった肉声を、未公開エピソードを中心に紹介する。
――明石さんがB’zのアレンジャーとして関わるようになったきっかけから教えてください
30歳で上京して、僕を拾ってくれたのがビーイングでした。当時、事務所内でB’zの企画が立ち上がっていて、僕はアレンジャーとして参加することになりました。長戸さんがアレンジャーを探していたんです。
――それまで、アレンジャーとしてのキャリアは?
まったくありません(笑)。僕が作ったデモテープを長戸さんが聴いて、「アレンジしてみないか?」と。僕は、作詞家でも作曲家でもシンガーでも音楽に携われればよかったので、やることになったんです。ただ、最初の1、2年は本当に大変でした。僕の人生でいちばん大変な時期でした。とにかく、やってもやってもボツなんですよ。僕がアレンジして、スタジオミュージシャンを集めて、スタジオでレコーディングして、最初の20曲ぐらいボツだったんです。これ、レコード会社の発注だったらありえない。数百万単位のお金をかけているわけですからね。
――B’zとの最初の出会いは?
1987年、1stアルバムが出る1年ほど前になります。2人とは会社で顔を合わせたことがある、という程度でしたね。松本(孝弘)さんはスタジオミュージシャンだったので、何度かギタリストとして参加してもらっていました。すでに売れっ子で、TM NETWORKや浜田麻里さんのサポートをやってました。ギタリストの北島健二さんの次を担う、若いハードロック系のスタジオミュージシャンという位置づけでしたね。稲葉(浩志)さんは、ビーイングのボーカルスクールに通っていて、優等生でした。
引用元: ・【音楽】「3人目のB’z」明石昌夫さん死去…最後に語った大人気バンドの本質「松本孝弘さんがすべてです」 [muffin★]
邦楽で縁の下の力持ちの一端を担ったお方だ
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