浅野内匠頭は切腹させられることに。主君の無念を晴らすため、大石内蔵助ら47名の赤穂浪士が吉良邸に潜入して敵討ちをする物語である。だが、世の中に広く語り継がれているストーリーには史実と異なる点も存在しているようだ。【白鳥純一/ライター】
吉良家と深いつながりを持ち、子爵家(米沢新田藩)9代目当主としてさまざまな講演を行う上杉孝久さんと妻のみすずさんに、“吉良上野介の視点”で見た赤穂事件についてお話を伺った。
吉良上野介の華麗な系譜
時代劇では「浅野内匠頭をイジめる嫌味な人物」として描かれることが多い旗本・吉良上野介の歴史を遡ると、上杉謙信、足利尊氏、藤原鎌足といった“歴史上の超有名人物”との色濃い関係性が浮かび上がってくる。
まず孝久さんは、上杉家の歴史と、吉良上野介との関係について言及する。
「元々は藤原家だった上杉家の始まりは、藤原重房が上杉姓を名乗った1252年に遡ります。重房の孫娘が足利家に嫁ぎ、子供の足利尊氏が室町幕府の初代将軍になったため、上杉家は関東管領に就き、一時は越後から伊豆半島周辺までを治める大勢力を築いたのですが、
北条氏の台頭によって、徐々に勢力圏が奪われていきました。そんな危機的な状況で上杉家の家督を譲られた長尾景虎が、後に上杉謙信を名乗って上杉家の再興に多大な貢献をすることになるんです」
その後、時は流れ、上杉家の姫と吉良上野介の間に生まれた綱憲が、上杉家の養子となり、4代目を継いだ。つまり、姓は異なるが、上杉綱憲にとって吉良上野介は父親にあたるのだ。
「吉良上野介は刀に手をかけなかった」
『忠臣蔵』の作中で吉良上野介が“悪役”として描かれているのはご承知の通り。吉良からの賄賂の支払い要求を断った浅野が、陰湿ないじめを受けたり、「鮒侍」などと罵倒されたりしたことに腹を立て、江戸城の松の大廊下で感情を抑えられずに吉良を斬り付けたとストーリーは進んでいくが……。
実際は「これらのほとんどがフィクションで、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由については、未だに明らかになっていないんです」(孝久さん)という。
「年末のドラマでは、強面の俳優が演じることが多い吉良上野介ですが、吉良家はもともと源氏の名家として名を馳せ、室町時代には足利御三家筆頭の家柄。事件が起こった当時も、
吉良家は天皇の使節を接待するための作法を、各大名に教える“高家筆頭”の立場にありました。大名からはいまで言う“授業料”を受け取りながら、厳しく指導を行っていたそうなんですけど……」
つまり、この“授業料”を賄賂と誤解し、厳しい指導をイジメと捉えられたのかもしれない、というわけである。
ただ、「江戸城松の廊下事件」(1701年3月14日)を巡っては、旗本の梶川与惣兵衛による「あの時、吉良上野介は一切刀に手をかけなかった」という証言の記録や、
天皇の勅使が「松の大廊下で大騒動が起きたと聞いている」という書簡を京都に送ったことは明らかになっているものの、浅野内匠頭が吉良上野介を斬った理由については、ほとんど資料が残っていないという。
みすずさんによれば、
「改めて考えてみると、徳川幕府がもう少し丁寧に浅野内匠頭を取り調べてから処罰を下せばよかったんでしょうけど、事件後すぐに切腹させてしまった。
結果として、これが大きな判断ミスだったように思います。吉良が刀を手にしていないことから“喧嘩”に該当しなかったという可能性もありますが、『喧嘩両成敗』が原則だった当時の世の中で、事情を知らない庶民は“不公平”に感じたのかもしれません。
また、情報が少ないことでかえってさまざまなフィクションを作りやすくなってしまった気がするんです。一度お芝居などで人気の作品になってしまうと、それらのイメージを払拭するのはなかなか難しいですからね」
https://news.yahoo.co.jp/articles/05f34222ab512630eaf4ad6eb8bf69b48bbe1bf8
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引用元: ・「いまも墓に石を投げられます…」時代劇きっての敵役「吉良上野介」は本当に“悪人”だったのか? 知られざる「忠臣蔵」の謎 [朝一から閉店までφ★]