曖昧な「マスクの着用場面」
当初、新型コロナウイルスは、当たり前だがその姿が見えないことや、「無症状感染もあり得る」との情報もあったため「大変な疫病だ」と筆者も感じていた。数回にわたって、まん延防止等重点措置や緊急事態宣言が発令され、「不要不急」という、曖昧で理解に苦しむ言葉が流行ったのも記憶に新しい。
そういった生活の中で、私たちは、感染対策としてマスクを日頃から着用するように呼びかけられ、マスクは手放せない「日常アイテム」となった現状がある。
ただ、どうだろう。それから数年が経ち、まじめ過ぎる日本人の性格がジャマをし、「皆がマスクをしているから」などと理由をつけて、なかなかマスクを外せず、結局は政府が「マスクを外してよい場面や着用する場面」を教えてしまう始末。みんな「私たちは子供ではない。なめているのか」と、怒りたくならないのだろうか。これまで日本人は「まじめ」と言われてきたが、その国民性が新型コロナを長引かせているという視点に、なぜ気づかないのかと思ってしまうのだ。
政府は2022年5月20日、新型コロナウイルス対策での「政府の考え方」を公表。屋内と屋外でマスク着用の有無が異なるとした。屋外では目安となる2m以上の「距離が確保できず、会話をする場面」であれば「マスク着用推奨」、それ以外は「マスク必要なし」となっている。一方、屋内の場合は目安2m以上の「距離が確保でき、会話をほとんど行わない場面」であれば「マスク必要なし」、それ以外は「マスク着用推奨」といった具合だ。
まず、私が少し引っかかったのは言葉の違いだ。マスクの「着用推奨」と「必要なし」では与える印象が大きく違う。「着用推奨」では「マスクを着用するといいですよ、おすすめですよ」と感じる反面、「必要なし」では「マスクを着用しなくてよい」ときっぱりと言い切られた感覚になるのは私だけだろうか。マスクの着用を「推奨」するのならば、外すのも「推奨」とすべきであり、マスクの「必要なし」であれば反対に「着用」とすべきではないのか。
責任逃れと世論の「分断」
さらに書いておきたいのは、「マスク着用の方法」をこれほど政府から細かく決められる必要があるのかという点だ。前述した言葉の印象もそうだが、皆、責任逃れをしたいという思いを感じてしまう。
※略
自分のことを自分で決められないのか
コロナ禍で改めて感じたことだが、自分のことを自分で決められないのはいかがなものなのだろうか。たとえば、千葉県船橋市の株式会社WDCが調査した20代~50代の300人を対象とした「マスク着用アンケート」によると、屋外で人との距離をじゅうぶんに保てる場合にマスクを外しているのか聞いたところ、「外している」が46%、「外していない」が54%とマスクを外していない人が半数を超えた。そしてマスクを「外していない」と回答した人にその理由を聞いたところ、一番多かったのは「屋外でも感染対策を行いたいから」が34.57%で最多、次いで「マスク着用が習慣になっているから」が24.69%、「まわりの目が気になるから」が23.46%となった。
この調査結果を見て違和感を覚えないだろうか。あくまで調査は300人を対象としているのでサンプルが少ない気もするが、成人年齢を超えた大人たちが、マスクをしていないと「まわりの目が気になる」と回答しているのだ。まるで子供のような考え方だ。大人なのだから自分のことは自分で決められないのか。
※略
全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e745a76a5c692dc1ceaf65e17380353fd4d2a9e
引用元: ・【社会】マスクを外さない日本人、自分のことは自分で決められないのか [首都圏の虎★]
冬は乾燥するから
花粉多いし
強面だから注意されたこともないし
じゃあ欧米が裸で歩いたら、裸で歩くの?
営業だけとカチンと来た時に
口もとだでも隠せるのはでかい