-「日本に千字文・論語伝えた王仁博士…」日本史書にのみ生存当時の記録が伝わり」
-「王仁渡日時期、4世紀後半から5世紀初め推定…日本の記録も互いに異なり」
-「東京上野公園に王仁博士碑…墓・祠堂など随所で追慕の跡」
-「栄山江流域の馬韓6世紀中葉まで存在…王仁博士は百済ではなく馬韓人」
◇ ユン・ジュソンアンカー(以下ユン・ジュソン):南道の歴史を楽しく聞く時間です。ノ・ソンテのストーリーで聞く南道の歴史、今日も南道歴史研究院ノ・ソンテ院長に来ていただきました。こんにちは。
◆ 南道歴史研究院ノ・ソンテ院長(以下ノ・ソンテ):こんにちは。
◇ ユン・ジュソン:今日の話の主題は何でしょうか?
◆ ノ・ソンテ:1600年前の人物の話です。論語と千字文を持って日本に渡り、今日の日本人たちから学問の神として推仰を受ける方がいます。リスナーの皆さんの中に感づいた方がいるか分かりませんが、王仁博士がその方なんです。今日は全羅南道(チョルラナムド)霊岩(ヨンアム)鳩林(クリム)村出身として知られている王仁博士の話をしたいと思います。
◇ ユン・ジュソン:日本に論語と千字文を伝えた王仁博士の話ですが、ところで王仁博士に関する記録が私たちの史書には残っていないと聞きましたが、なぜそうなんですか?
◆ ノ・ソンテ:私たちの史書には朝鮮後期、18世紀後半にハン・チユンが書いた「海東歴史」が初めて目に入ります。そして彼の出生地として知られる霊岩郡の郷土誌に、その後収録されています。ですから、当代の王仁博士に関する記録はないとみれます。これに対し、日本側の文献記録には相当多くの王仁博士の記録が残っています。
◇ ユン・ジュソン:私たちの歴史書には残っていないのに、日本の歴史書に多く残っている理由は何ですか?
◆ ノ・ソンテ:私の考えでは、王仁が私たちよりも日本人にとって意味のある方だったからではないかと思います。韓末に米国から来た医療宣教師アレンという方、学校に通っていた時に教科書に載っている方ですが、この方はアメリカの教科書には載っておらず、韓国の教科書には載っている方ですよね。我が国に来て、もちろん公使としても活動しましたが、韓国に初の西洋病院である済衆院(チェジュンウォン)、現セブランス病院を設立した方として有名です。とにかく、王仁が韓国より日本で多くの記録が残っているのも、アレンのように韓国人よりも日本人にもっと大きな影響を与えたからだと思います。
◇ ユン・ジュソン:王仁博士は日本にいつ渡ったのですか。
◆ ノ・ソンテ:日本の歴史書でも渡った時期に若干差異があります。先ほど「日本書紀」の話を少ししましたが、「古事記」は8世紀初めに記述された歴史書なんですが、「古事記」を見ると百済の照古王が賢人を送ってほしいという日王の要請を受け入れて、和邇、日本の発音で「ワニ」なんです。 ワニという人物を送って論語10巻、千字文1冊巻を渡した、こうなっています。「日本書紀」によると、応神天皇16年6月に、日王の要請で百済の王仁が到着し、太子の師匠となったと、こう記されています。
KBSニュース(韓国語)
https://n.news.naver.com/mnews/article/056/0011420386
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◆ ノ・ソンテ:日本書紀紀年というのは、一定の起源から計算した年度のことです。紀年によりますと、応神天皇16年は西紀285年です。 この時、百済は古爾王52年に該当します。しかし、「古事記」に出てくる百済の照古王は百済の王の歴史には出てこない王なので、おそらく4世紀中後半に生きた近肖古王ではないかと推定しています。ですから、「古事記」や「日本書紀」に出てくる王仁の渡日時期は、一つは3世紀後半、もう一つは5世紀初め、4世紀後半と、このように相当の差があります。一般的に「日本書紀」応神紀の基準年度は120年、二周甲引上といいます。120年降りて再調整してこそ、実際の年代と符合すると知られています。この見解によると、王仁が渡日した年代は285年ではなく405年くらいになります。いずれにせよ、王仁がいつ渡日したかについての正確な年代はわかりませんが、少なくとも4世紀後半か5世紀初めに成されたことは明らかです。
◇ ユン・ジュソン:また、王仁博士が渡った時期について、先ほど整理してくれましたが、両史書に記録された王仁の名前も若干異なるようですね。
◆ ノ・ソンテ:そうです。「古事記」では先ほども話しましたが、日本王が賢人を送ってほしいと百済王に要請すると、ファイギルサ、漢字では和邇吉師と出てきます。 日本の発音では、ファイギルサのことを「ワニキシ」と、そう発音するんですが。 「ファイ」の後についた「キルサ」は立派な師匠につける日本式尊称なので、ファイという有名な学者を送ったということになっています。 「日本書紀」には王君の「王」の字、賢いの「仁」の字を使って、私たちが知っているワンイン(王仁)と記録されていますが、日本の発音では「ワニ」と読みます。 ですから整理すると、『古事記』に出てきた漢字の「ファイ(和邇)」や『日本書紀』に出てくる「王仁」は、どちらも日本の発音で「ワニ」というように読むのです。
◇ ユン・ジュソン:院長は日本に残っている王仁博士の痕跡を訪ねたと聞いていますが、どのような遺跡が残っていますか?
◆ ノ・ソンテ:墓が大阪枚方市にあります。 王仁を称える祠堂、記念碑、そして彼を称える神社が佐賀県など日本各地に残っています。大阪枚方市には博士王仁の墓と書かれた王仁博士の墓が残っていますが、今この墓は大阪府史跡に指定されています。
そして日本の心臓部東京上野公園には、王仁博士を称える碑も立っています。 私が現場に行ってきた記憶があります。
◇ ユン・ジュソン:東京・上野公園に建てられた王仁博士碑にはどのような内容が記録されていますか?
◆ ノ・ソンテ:碑文の主要内容を私が今読んでみます。「博士王仁は百済人で、当時の百済にて多くの巨儒と賢人たちから尊敬された文章道徳の孔子だった。王仁は応神天皇16年2月に千字文と論語などを持って日本に渡り、日本の王太子の師匠となった。孔子は春秋時代に生まれ、万古不朽の人倫道徳を明らかにし、天下萬世として儒林の始祖となり、博士王仁は孔子が亡くなってから760年すぎに韓国に生まれ、日本国太子に忠・信・孝・悌の道を教えて、広く国の中に伝授し、1653年を継承してきた。 千古に輝く王仁博士の偉業こそ悠久悠大で終わりがない」と刻まれています。
◇ ユン・ジュソン:ところで上野公園には、この碑を建立した時点と資金を提供した人々の面々を見ると、他の意図があったのではないかという疑いもあるんだとか?
◆ ノ・ソンテ:時点のせいだと思います。この碑を建てる時、我が国の昌徳宮から資金をおろしたそうです。 韓国の皇室から資金を出しました。日本からは執権者の近衛首相をはじめとする皇族、高官、文学者、僧侶、政治家など各界各層を網羅した230人ほどが、この碑を建てるのに参加します。ところが、最初に申し上げたように、碑が建立された時点が1937年、つまり太平洋戦争が勃発する直前であることを考慮すると、おそらく朝鮮人たちを強制的に徴発するための内鮮一体を叫んだ日本の不純な意図が、王仁博士碑が建てられた背景ではないかと、そんな疑いがあります。とにかく設立の意図が何であれ、上野公園の王仁碑は、王仁がどんな方なのか、そして日本人にどれだけ尊敬心を受けているのかをよく見せてくれることに異論はないようです。