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実はそれともう一つ忘れてならないのが、邪馬台国とヤマト王権の関係だ。もしも邪馬台国が畿内大和にあったとすれば、ヤマト王権とはその後継勢力であったとみなすことができそうだが、九州にあったとすれば、話がややこしい。九州の邪馬台国が畿内大和に君臨したヤマト王権とどのように関わってきたのか、これがなかなか解明できないからである。
ただし、まんざら手がかりがないわけではない。その謎解明に大きな役割を果たしてくれそうなのが、邪馬台国と敵対関係にあったとされる「狗奴国」の存在と「倭国大乱」だと思えてならない。まずは、狗奴国がどのような国だったのかから見ていくいことにしよう。
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それでも気を取り直して、狗奴国の比定地として有力視される出雲を中心として考えてみた。出雲といえば、壮大な出雲神話のことが思い浮かぶ。新羅から渡来してきた素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、八岐大蛇に投影された越の豪族たちを追い出し、その娘婿あるいは数代後裔の大国主神(オオクニヌシノカミ)が国造りに励んだとされるところである。少彦名命(スクナヒコナノミコト)と力を合わせ、ついに国造りを成し遂げ、広大な出雲王国を築いたとか。勢力範囲は、九州を除く西日本一帯だったと考えても不思議ではない。
問題はここからである。もしもその王国が狗奴国だったとすればどうなるのか……である。その勢力範囲は広大で、中国地方西端にまで及んでいたとも考えられるわけだから、下関でさえ狗奴国の勢力範囲内である。ならば、海を渡ること千余里で狗奴国、つまり、その一部である下関に至ると言い切ったとしても、決して間違いではないのだ。
■倭国大乱は、「葦原中国の平定」か「神武東征」か?
では、この時、吉備や畿内大和はどのような状況下にあったのかも、合わせて考えてみたい。実は両地とも、王国と呼べるほどの巨大な勢力であったことは、容易に推測できるだろう。この両勢力が、朝鮮半島の鉄資源を北九州を経由して手に入れていたものの、九州勢が単独で後漢へ遣使を送って冊封された(AD 57年に金印を授与された)ことに激怒。北九州勢と絶縁して、出雲勢力と手を組んだものと考えられる。出雲なら、北九州を介さずとも、直接、朝鮮半島への航行が可能だったからである。
となれば、この時点での対立構造は、九州勢(倭連合国)VS九州を除く西日本連合国(出雲、吉備、畿内大和が中心)と考えられるのではないか。その後、AD107年に倭国王帥升が後漢に遣使を送ったことが『後漢書』に記されているが、この帥升を出雲王国の立役者であった素戔嗚尊とみなす識者もいるようだから、九州勢の奴国に対抗して、西日本連合国の盟主的存在であった出雲王国が後漢に朝貢したと考えることもできそうだ。
そして、その数十年後に繰り広げられたのが、倭国大乱であった。『後漢書』によれば、桓帝霊帝の治世(146~189年)の頃、『梁書』によれば霊帝の光和年間(178~184年)の頃のことである。それが、神話として語られる「葦原中国の平定」のことだと思えてならないのだ。九州勢(邪馬台国)を率いるのは、高天原にいたとされる天孫族で、出雲王国を率いるのは大国主神。天孫族が大国主神に国譲りを強要。一部抵抗はあったものの、見事その制圧に成功する。これが倭国大乱を象徴的に語ったものとみなしたいのだ。
そして、その締めくくりが、神武天皇による東征であった。未だなびかぬ吉備をひとたび制した後、当時はまだ物部王国であった畿内大和勢をも制圧。ヤマト王権の創建である。つまるところ、ヤマト王権の母体は邪馬台国であり、畿内大和の物部王国を自らの勢力に取り込むことを皮切りとして、新たな王権を発足させたのだ。その後、勢力を拡大。崇神天皇10年に四道将軍の一人・彦五十狭芹彦命(吉備津彦)を吉備に派遣して、これを完全に制圧。それから2世紀以上も過ぎた継体天皇21(527)年に起きた磐井の乱を制したことをもって、ようやく九州勢を駆逐して、全国制覇を成し遂げたと考えられるのだ。
ただし、疑問は残る。倭の連合国の主体は北九州にあったことは間違いないが、女王として共立された卑弥呼がいたとされる邪馬台国がどこにあったのかは、この文面だけでは明確にできないからである。(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5ccb79408da78ae337fae40bc175ec1d6d024f9
引用元: ・【歴史】「倭国大乱」「狗奴国」の真相解明で、邪馬台国の謎が解ける! 古代史最大の謎には「出雲」が関わっていた? [樽悶★]


