【歴史】邪馬台国の女王「卑弥呼」はヤマト政権の天皇(大王)だったのか⁉ ヤマト政権との関係はどのようなものだったのか⁉

1: 樽悶 ★ 2025/09/24(水) 23:55:22.49 ID:Kz3/j5ff9
■卑弥呼は女帝なのか?それとも宗教王だったのか? 邪馬台国が畿内にあったとすると、卑弥呼とヤマト政権と関係がどのようなものだったのかが問題になってこよう。言葉を変えれば、卑弥呼がヤマト政権の大王(天皇)であった可能性はあるのかということである。

『魏志』倭人伝には、卑弥呼のことを「倭の女王」と記述している。しかし、「記・紀」をみると、女性初の大王(天皇)は推古とされ、それまでの大王はいずれも男性とされている。

この点をふまえて、『魏志』倭人伝にみられる卑弥呼の記述を検討していくと、まず、王となってからは、人前に出ることはあまりなく、1000人もの婢(はしため)にかしずかれて生活していたとある。年齢は「長大」で「夫婿」はいなかった。すなわち、かなりの年配で夫はいなかったと記されている。もっとも、「長大」には成人という意味もある。

卑弥呼の館は、宮室のほか物見用の高殿や城柵が設けられていて、武器を持った兵によって厳重に守衛されているという。ただ、「男弟」がいて政治を補佐しているとも記されている。

こうした『魏志』倭人伝の記述を読むと、卑弥呼は率先して人びとの先頭に立ち、政治をとっている存在とはいい難い。むしろ、ガードの堅い宮殿の中に居住して、「鬼道」とよばれる呪術を駆使して人びとからあがめられるシャーマン的存在であったように思われる。卑弥呼の教えは、「男弟」に伝達されてそれによって政治がおこなわれていたと思われる。つまり、卑弥呼は宗教王であり、「男弟」は政治王であるという役割分担がなされていたと考えられる。(以下ソース)

9/19(金) 12:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/385fc5b547a51ba6225bc5040e8e8565bd8a101c
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引用元: ・【歴史】邪馬台国の女王「卑弥呼」はヤマト政権の天皇(大王)だったのか⁉ ヤマト政権との関係はどのようなものだったのか⁉ [樽悶★]

2: 名無しどんぶらこ 2025/09/24(水) 23:56:14.14 ID:qsRcO2hF0
邪魔大王国は結局どこにあったんだよ
3: 名無しどんぶらこ 2025/09/24(水) 23:56:17.78 ID:M6Sso/x70
巫女
4: 名無しどんぶらこ 2025/09/24(水) 23:58:39.60 ID:VMByHsBe0
卑弥呼がどうの日本人の大半はどうでもいいだろ
5: 名無しどんぶらこ 2025/09/24(水) 23:59:33.62 ID:wzDiOO970
卑弥呼など、ヤマト王権から見れば九州の一女酋にすぎません。
狗奴国との決戦、天の安河(夜須川・福岡県)の会戦で敗れたのでしょう(卑弥呼はここで死亡)。
後にヤマト王権を打ち立てることとなる渡来系のイザサワケは、宇佐に敗走し細々と続いていた邪馬台国の末裔(神夏磯姫)の血を入れ
瀬戸内を東進し吉備と組んで河内入りしたため、その血はあるいは次代のホムタワケにも受け継がれているのかもしれません。
大仙陵古墳の被葬者はホムタワケでしょう。
イザサワケが九州産まれであることは記紀にも明記されています。
その母オキナガタラシ姫の率いるタラシ系の集団は朝鮮半島南部の多羅から渡来した王族でしょう。
彼らは当時、九州北部と朝鮮半島南部に割拠していた「倭人」です。現代の韓国人、朝鮮人とは縁もゆかりも有りません。
百済も倭人系の国家であったからこそ、滅亡前から、あるいはその滅亡後にはその末裔たちが「渡来人」として日本に大挙して来るわけですが
倭と百済が滅びた(そして東に有った日本が倭を併合した)ことで半島から倭人は完全撤退することとなったのでしょう。

8: 名無しどんぶらこ 2025/09/25(木) 00:00:39.76 ID:5ezlq6Qx0
早く決着つけろよアホ
ブレダウルールでいいから
9: 名無しどんぶらこ 2025/09/25(木) 00:01:30.96 ID:4E4NVH/50
統一教会の韓総裁みたいなもん?
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