https://trilltrill.jp/articles/4689309(前略)
何を学んできたのかということは、とりもなおさず「自分が何者であるか」というアイデンティティの問題でもあるからです。それを思えば、電子教科書なぞは、人間を愚昧ぐまい化する政策の最たるものと言えます。
年々歳々、学校の授業では古典文学なんか読まなくていいというようになってきて、漢文などもほとんど教えないという学校も少なくないらしいのです。
私たちのころは、漢文・古文・現代文の3つを学んだのであったけれど、今は「国語総合」とかいって、現代文も古文も一緒くたにして教え、古典文学を学ぶことが質量ともに貧しくなっており、概していえば、古文や漢文はごくおざなり……まあやってもやらなくてもいい、というようなことになっているらしい。
なんという情けないことでしょうか。
■世界で比類なき歴史を持つ日本の古典
日本の文学は文字のテキストだけでも、『古事記』あるいは『万葉集』から数えれば1300年もの歴史があるというのに、こんな貧弱な姿では、我々の祖先の文学をちゃんと読解することなどおぼつかない限りです。
古典を読んだことのない若者たちに、どうやって日本人としての誇りを持たせるのでしょうか。
イギリスでシェイクスピアの戯曲が書かれて500年くらい。それに対して、日本という国が持っている、文学や書物の長く豊潤な歴史ということを考えると、712年にできた『古事記』から数えれば、現在まで1314年になるし、759年に作られた『万葉集』から数えても1231年になります。
それから一度も王朝が亡んだり交代したりすることなく、現在まで連綿と無数の古典文学作品を作りつづけ、書物として伝えつづけてきた国は、世界広しといえども、わが日本だけで、世界中ほかにはどこにもそんな国はないのです。
中国は刊本でないと書物として認められない、すると現存するものは一番古くて10世紀くらいになる。それも中国の書物は哲学や思想、あるいは歴史や詩文などが主体だから、長い書物と文学の歴史を持っていることにおいては、日本は世界で随一にして唯一の国です。
■タブレット1枚授業で失われるもの
教科書をデジタルにすると、確かにタブレット1つ持っていれば、それで済むかもしれない。けれど、それだけを持って登校する生徒たちの姿を想像すると、便利ではあっても、学校生活の味わいがない、という気がします。
きょうは、国語と理科、それに算数と社会、とかいうように、時間割を睨にらみながら、毎日ランドセルに教科書を選んで入れ、それを肩に担かついで登校する、そうしたことの中に「学校に通う」ことの喜びもあり、日々の勉強の現実性もあるというものです。
それをタブレット1枚だけ持って行くのは、もう何もかもスマホでやるのと一緒で、便利ではあるが味気ない。
オブジェクトとしての教科書がないのは、それとともに暮し、それをつかって学んだという「実感」が圧倒的に希薄になってしまう、そういうものです。
歴史文化が失われる亡国の兆し
今後、デジタル教科書で育った子どもたちが社会の大勢を占めるようになったら、日本の古典文学なんかを勉強しようと思う人がいなくなってしまうかもしれません。
たとえば、中国では、共産党が天下を握ってから文字を簡体字にしてしまった。そのため、今の中国の人は昔の本をまったく読めないのです。
かつて正字であった繁体字で書かれていると、何の字だかわからない。そこで文化の断絶が起こってしまい、全く古典を理解できない人が大半になって、何千年も昔から蓄積されてきた、哲学、歴史、文学、学術、等々の根幹を形成する「書物」を、国民の大多数が読むこともできず、むろん書くこともできない……それは一国の存立から言えば、歴史の喪失、文化的蓄積の断絶ということですから、もう亡国の兆きざしです。
日本のように、奥ゆかしい文学や哲学、絵画や歴史、そういう文化的な長い伝統を持っている国が、そんな情けないことになっていいのでしょうか。
アメリカなどは、18世紀に出来た新興国ですから、当然我が国のように長い伝統もなく、豊かな古典文学も持っていません。そうした長く豊かな歴史を持たない国々が電子化という力わざによって、文化的ヘゲモニーを掌握し、すべてをその都合に合わせて再構成するようでは、我々の長い伝統と高い蓄積を誇る文化的アイデンティティが圧殺されてしまうことがあきらかです。
絶対にそんなことを許してはなりません。
引用元: ・【国語】だから”タブレット1枚授業”で国は滅ぶ…林望「中国を見ればわかる若者が古典を読まない国の末路」 [七波羅探題★]
バカが増えることで地方の中小サッシ製造会社の仕事減る?潰れる?
みんな寝るから

